幕末期、各国(当時のくに)から京都に集ってきた勤皇の志士たちは、互いの話し言葉が理解できず、どうもたいへん困ったようだ。これは議論をするという習慣がなかったことも意思疎通の壁であったことにもよるらしいが、基本はやはり互いのお国言葉が違いすぎたのだろう。彼らが採った解決策は、言いたいことを文章にすること、つまり手紙を書いて相手に伝えることであったらしい。
科学的、あるいは実証的証拠は何もないが、このお国言葉の違いは、江戸期250年の間に深くなったのではないかと私は考えている。室町末期からの戦国時代には、人は、江戸期よりも遥かに数多く、かつ広く交流していたのではないかと思う。それが江戸幕府の成立で、海外との鎖国だけでなく、国内的にも鎖国という二重鎖国となったがために、しかもその状態がなんと250年も続いたがために、各地の言葉は外からの影響を受けることなく、内へ内へともぐり込んでいったのではないだろうか。その一番の典型は薩摩であり、この藩はまさに二重鎖国(反面では琉球と中国との貿易を密かにやっていたのだが)の典型であった。こうして、他国人にとって薩摩言葉の理解は最大級の難問となったわけだ。江戸常勤の武士(薩摩国の行政官僚)はもちろん流暢な江戸弁を操ったにせよ、250年の間、外界(藩の外)と交流した薩摩人の割合は微々たる数であったろ。
明治になって「標準語」なるものが半ば人工的に創られたのも、”互いに何をしゃべっているのか理解できなくては、文明開化も近代国家の設立もあったものではない”、という切実な課題があったからと思われる。
なんでこのような話を始めているかといえば、文明事項を語る日本語を確立しなければどうにもならないと考え続けているからである。”どげんとせにゃアカン”と考えているからである。
なぜか。理由は三つある。一つは、この国をどうするか、それぞれの地方をどうするか、まともな議論を行って実行して行くためには、乾いた日本語、はっきり言う日本語が必要であるからである。しかし、この課題はここで正面から取り上げずに置く。
もう一つは、世界が必要としている「日本の知恵」を世界中にもって行くためである。知恵といっても、文化そのものは外す。「武士道」を輸出するのはまた別の話であり、これまで何度も書いて来ているように、対象とする知恵は、文化・宗教・民族の違いを超えて、頭で理解できる人には誰でも道が開けている「文明事項」が対象となる。モノの輸出に頼りきりはまずいと、今回の大不況騒ぎでようやく多くの人が気がついてくれたようだが、ではどうする、というところでは合意は生まれていないようである。しかし、「モノ」に変換する前の「知恵」そのものを軸にして世界の中でやっていく、ということはなんとなく感じられ始めたのではないだろうか。例えば、知的財産のうちの特許という世界でも、”海の向こうが勝負の場である”とようやくわかってきたのではなかろうか。
この「知恵」の輸出には、知恵を語る簡明な日本語が必要であることは、誰もが認めてくれるだろう。情感を語ることに重点を置いた、言葉を換えていえば、文化そのものの日本語では、乾いた文明事項を語るには適さないことは簡単に理解されるだろう。
もう一つの理由は、これからますます増えていく海外からの居住者に、この列島で何とか生きていってもらうためには、社会の中の文化ではなく、その上部構造の文明事項をできるだけ容易に理解してもらう必要があるからである。これまで、この列島の国政府と地方政府は、この課題に対してほとんどまったく対策を講じてこなかった。日系ブラジル人に対して、日本語という面でほとんどまったく手当てがほどこされてこなかったことだけ見ても、「何もせず」という事実は理解されるだろう。
文明事項を語るための簡明な日本語体系があれば、それに基づいて記述された日本語文章を例えば英語文章に転換することは大きな問題ではない。極めて容易な作業と言ってもいい。
地球(自然)と世界(社会)は今、とてつもない問題に直面している。この問題に対する解決策を、もちろん完全ではないが、日本は数多く持っている。しかし、その解決策を持ち出す武器が整っていない。言語という武器が、かつての帝国陸軍の三八式歩兵銃の如く旧式なのだ。西洋文明をの輸入を始めてから160年以上の歴史があるのに、それらを日本で加工した事項を語る言語の整備は怠ってきた。”黙って良質の「モノ」だけ作っていればいいや”、というやり方だけに忙しくて、言葉で語る努力はお座なりにされてきた。モノの品質向上にはシャカリキで取り組んできたが、それらを語る言語の品質向上は無視され続けてきた。
そりゃそうだ。品質向上には、「デミング博士」の教えなど教科書があったが、言語に関しては、西洋文明もそこまで教えてはくれない。”日本語でどれだけ簡潔に、明快に語るかは、それはあなた方日本人が自分で考えて、自分で努力する課題でしょう”、と言うことだ。
文明事項を語るための日本語品質改善の「デミング賞」を自分で考え自分で作りだすしかない。自然科学や技術や社会システムなどの文明事項に携わっている人たちは、ひっしになってこのもう一つの日本語の構築に取り組み、文化的な日本語(日本の文化の中で一定期間暮らしたことがある人だけに理解できる言葉)とは別に、もう一つの日本語を加えてのバイリンガルになる必要がある。話言葉としては、お国の言葉も含めればバイリンガルではなく日本語トリリンガルといってもいい。*お国の言葉は「方言」とかいわれて、なにやら劣るもののように取り扱われてきたが、これは「日本文化」を大事にしないとんでもない誤りである。しかしそのことはここでのテーマから外れる。
「語る(書く)ための日本語バイリンガルになろう」、が本日のキャッチである。
(09.06.20.篠原泰正)