一つの文化が圧倒的な文明力に襲われると、文化がずたずたにされる危険がある。というより、ずたずたにされた証拠が歴史上、世界の各地にある。
中でも、文化の核である言語への影響は、それが核であるがために、文化そのものの根底を崩すほどのマグニチュードとなる場合がある。16世紀から始まる西洋諸国による植民地化、日本などをほんのわずかの例外として、西洋世界以外のほとんど全ての地域が襲われたその植民地では、土着の、つまりその土地の言語の多くが消滅するという悲劇を生んだ。かすかに生き残っているとしても、”第一公用語は英語である”というような例がたくさんある。これらの地域の場合、西洋文明が「帝国主義」という衣をまとって現れ、具体的な支配力であったので、弱小の土着文化勢は抵抗するすべもなかったと言える。
日本は、圧倒的な文明力の前に、日本文化の核である日本語が危険に晒された場合が三度あるが、いずれの場合も、何とか無事に切り抜けてきた。
最初は、5-6世紀ごろに始まる中国文明の輸入期である。文明というものを自生してこなかった日本が、文化だけで圧倒的な中国文明を前にしたことを考えれば、日本の公用語が中国語にならなかったのは、奇跡とも言うべきことではなかったか。それまで文字を持たなかった日本文化が「漢字」という存在を知ったとき、その衝撃はいかばかりであったろうか。衝撃のあまり、オリジナルの日本語、泥臭い日本語を捨てて、”ぜ~んぶ中国語に取り替えましょう”、という奴が出てきてもおかしくなかったであろう。文字としての漢字と、それらの文字が有する概念や名称を嬉々として受け入れたが、幸いかな、日本語の体系を崩すことはなかった。なぜこのことが実現できたのか、つまりなぜ言語体系を守ることができたのかは、私にとってはいまだに謎であるが、もしかしたらわれわれのご先祖の頭の構造が、とてもじゃないが中国語の体系を受け入れられるものではなかったためかとも想像する。
二度目のヤバイ時は、言うまでもなく黒船以降であり、産業革命の「工業力」を目に見える文明の形で持ってきた西洋文明を前にしては、日本語をギブアップしようと考えた人が出てもおかしくなかった。しかし、この場合も、幕末から明治にかけての先駆者の必死の努力で、日本語消滅の危機は免れた。幸いかな、中国から輸入し続けていた漢字とそれが持つ意味のおかげで、日本語の体系を崩すことなく、ほとんどあらゆる単語を「漢語」に置き換えることが実現された。中国文明の遺産を最大限に活用したわけだ。それにしても、この離れ業を実現しえたほどに、中国文明が生んだ言語の質の高さと量の多さはすばらしいものがある。
われわれは、この漢字の使用に関しては、歴史上一度も中国に使用料(ローヤルティ)を払ったことがないはずであるから、さすが大国の中国は鷹揚なものである。その対価に、現在ではせっせと技術を無料で開示しているといえないこともないが、話がそれるのでこの話はやめる。
三度目は、先の大戦の敗北である。圧倒的なアメリカ文明(西洋文明のリーダーとしての)の前に、トコトン痛めつけられたショックから、日本語を使っている限り日本の将来は絶望的であると考えた人も現れた。フランス語や英語を公用語にしよう、なんて意見も出た。しかし、結果は、日本語は無傷のまま保持できた。いや、無傷とは、怪しげな英語の単語が今に至るまで溢れていることからみて、言い過ぎかも知れぬ。しかし、単語は溢れても言語の体系は無傷であった。
なぜなのか。もちろん、幸いなことに、文明を土台にした「帝国主義」という具体的力をもろに受けなかったことが挙げられる。漢字が初めて輸入された頃の中国は、著名の三国志の後の、五胡十六国とかなんとか言われる分裂の時代であり、日本を属国にしようなどと考える余裕は誰も持たなかったであろうし、続く隋、唐の時代もそういう面では穏やかな大国であったことが幸いした。もちろん、北部の中国の人はどうやら海に弱いらしいことも幸いした。
幕末から明治維新にかけての時は、西洋風近代国家ではなかったにせよ、社会は十分に発達しており、荒くれでなる西欧大国も直接手を出すのをはばかる実体があった。この前の戦争の時は「帝国」同士の殴り合いであったから、負けた方が植民地になるという図式にはならなかった。
このようにして、文明という衣を纏った帝国の圧力で言語が吹っ飛んでしまう悲劇は避けられたことになる。しかし、それだけではなく、どうも、日本語を軸にした日本文化は、ユーラシア大陸の東と西の端の文明を、全面的に受け入れるには至らない何やら大きな違いがあるからのように思える。つまり、日本文化は、大陸型とは大きく質が異なっており、そこからの文明を「舶来もの」として大いにありがたがるお調子ものではあるが、芯のところでは崩れない何かを持っているがためではないだろうか。
そして、その、芯のところでは崩れない何かがあるがゆえに、日本はこれまでにも、その独自性を打ち出してきたし、これからはますますその特色をバネにして世界に貢献できると私は考え続けている。同時に、そのことは、反面において、えたいの知れないあいまい性ゆえに、世界から”変なクニ、変なヒト”と見られる結果を生んでいる。社会事項や、自然科学事項や、あるいは技術事項を語る上で、明快性にトコトン欠けているのもその一つの表れと言えよう。(なお、文学面ではこのあいまい性は弱点にはならない。一方、日本の大新聞の記事はそのままでは欧州言語(代表は英語)に翻訳できないものが多い)。
(09.06.17.篠原泰正)