日本文化は、縄文の昔から何千年という時間をかけて、営々と耕されて(cultivated)きて今に至っている。それはもちろん一本調子の一枚岩ではなく、その途上で中国文明や西洋文明の波を受けて、大きく浸食されたり変形してきた。しかし、考えてみると、それらの文明の波以前に、オリジナルの縄文文化は、海の向こうからもたらされた弥生文化に大きく影響され、文化として今日に至っている部分の多くは弥生勢の方が優勢となっている。
これは、社会的にも、縄文人が弥生人に、東へ東へ、北へ北へと押され押されていった力関係もあるが、そのことを含めて、なぜに縄文組は押されっ放しであったかを考えさす図式でもある。弥生組が優勢であったのは、彼らの持ち込んだ「水田稲作」が、縄文式の「採集と狩猟」方式から比べると遥かに生産性、つまり養える人口が遥かに多かったことにある。なぜその生産性は高かったのか。答えは、自然物に手を加えて水田を作るという発想にあった。水田を広げることは、一言で言えば「治水」であり、それは土木工事を伴う。
日本列島の住人は、この土木工事をベースとする弥生文化が根底にあったればこそ、中国や西洋からの文明を受け入れる基盤を持っていたことになる。文明とは、その一面において、大いなる土木工事、大いなる自然改造を意味することを知れば、このことは理解できるであろう。この列島の住民が、先に書いた、オリジナル・アメリカンの如くの採集と狩猟の文化だけであれば、中国文明の使徒や西洋文明の使徒によって、北に北に追い詰められ、ついには「縄文リザベーション」とか看板の立つ居留地に押し込められる運命にあったろう。
その意味では、弥生文化が縄文に混ざったことはありがたかったと言えるだろうけれど、同時に、縄文の基本である、自然の中に溶け込んで、必要な分だけ、山の恵み(山の幸)、海の恵み(海の幸)として頂くという謙虚な生活方式は劣勢になって行った。なお、話はそれるが、台湾をオリジナルとするポリネシアの人々も同じ生き方の下にあったが(海の恵みをむさぼらない)、彼らが主に列島の太平洋岸に住み着いて漁を業とし始めたのは早くても弥生の頃であったろうから、オリジナル縄文人とは言えないだろう。
しかし、縄文の心が日本文化の中からまったく消えたかというとそれはなく、今でもわれわれ一人一人の中に何がしかは息づいている。自然を改造しての水田稲作の村落において、例えば「里山」のように、自然を保護しながら利用するやり方は、今や大きく崩れたとはいえ、まだ絶滅はしていない。また、戦国末までの都市建設のアーキテクチャーを眺めれば、城郭を中心としながらも、そこの地形をできるだけ組み入れた設計であり、中国や西洋風に全てを平らな更地にしてそこに真っ直ぐの道路と建造物を建てるやり方とは大いにその趣向が異なる。
私が半世紀以上住む東京の、その元の江戸の縄張り(設計:アーキテクチャー)をみても、自然を大幅に改造した部分は、駿河台の突端を削って、その土でもって日比谷入り江を埋め立てたところと、湯島台の突端の駿河台を東西に分断して御茶ノ水渓谷(神田川)を掘り割ったところぐらいである。もちろん、埋め立てはその後銀座の東にどんどん広げられたが、江戸城を中心とする縄張りは、ほとんど、大田道灌以来の地形をそのまま利用したものである。この設計が今に続く東京の都市美の元になっていることは言うを待たない。
このように、オリジナルの日本文化は縄文と弥生の混血であり、そのことが日本文化に基本的な陰影をつけている。自然を自分たちの都合のために改造するやり方は、明治になるまではこのように、水田開発と都市設計だけであり、それらの人工物もほとんど自然の風景の中に溶け込んでの景色であったろう。黒煙を上げて国中が「列島改造」に走り出したのは明治維新以降であり、たかだかまだ150年の歴史でしかない。もちろん、このたかだか150年の間に、とてつもなく自然を壊してきて、江戸末期の人間が今の列島の様を眺めれば、とてもじゃないがこれが同じ民族の成した業かと目をこするであろう。それほどまでに、西洋文明の導入による破壊の跡はすさまじい。
私は何を言いたいのだろうか。
一言で言えば、現文明の終幕において、ほとんど失いかけている縄文の心を回復することで次なるステージに向おうではないか、ということだ。オリジナル・ジャパニーズは縄文人であり、自然と共に生きる彼らご先祖の生き方をもう一度勉強し直すことが、次なるステージへの大いなる助けになるはずだ、ということだ。森にも川にも山にも神々が息づくという敬虔な心を少しでも取り戻すことが明日を開く。そして、その面では、この列島の住民は、世界の他の地域と比べると、測り知れないアドバンテージを持っていることになる。われわれはご先祖に縄文人を持っていたことを本当に感謝すべきなのだ。
(09.06.15.篠原泰正)