1876年というと日本では明治9年にあたるが、この年、カスター隊長(George Custer)率いる第7騎兵隊(7th Cavalry)が、アメリ西部のリトル・ビッグホーン(Little Bighorn)で、シッティング・ブル(Sitting Bull)を総指揮官とするアメリカインディアン部族連合軍に戦いを仕掛け、哀れ全滅の憂き目に会った。
私は子供の時、この戦いを主題にした邦題「壮烈第7騎兵隊」という映画を見た記憶がある。その内容は覚えていないが、この映画も当時のその他のハリウッド映画と同じく、”白人良い人、インディアン悪い奴”のお定まりのストーリーであったことは間違いない。前にも書いたと思うが、子供の時の映画の印象は強烈であり、私の頭の中から”インディアン悪い奴”という誤った歴史観を消し去るのにその後随分時間を要した。
アメリカインディアンを今はネイティブ・アメリカンと呼ぶらしいが、後に「アメリカ」と名付けられた大陸に昔から暮らしていた人々を、私はあえて「オリジナルアメリカ人」と呼ぶことにする。彼らがその昔、海洋が今よりずっと後退していて、ユーラシア(EuroAsia)大陸とアメリカ大陸が今のベーリング海峡地点で陸続きであった頃、ユーラシア大陸から渡ってきた人たちであることは定説となっている。つまり、オリジナルアメリカンのそのまたオリジナルは大雑把に言えば今のシベリアあたりであったことになる。
一つの文化が一つの文明に出会うと、文明の「威力」が大きいために「文化側」はどうしても旗色が悪い。場合によれば、その土地の文化は壊滅的打撃、すなわち根こそぎ滅ぼされてしまう危険がある。カスターが南北戦争やその後のインディアン狩りに有名を馳せていたその頃に開国した日本が、西洋文明の荒波にもみくちゃにされたことを、あるいは太平洋戦争で負けた後の西洋イコールアメリカ文明の荒波に翻弄されたことを思い出せば、この文化と文明の衝突の影響の大きさは簡単に実感することができる。
オリジナルアメリカ人の文化は、多分間違いなく、そのオリジナルがユーラシア大陸に居たときから引き継いできたところの、自然の中で自然に溶け込んで生きていくというものであった。このことは、シベリアやアメリカ大陸の北辺に暮らすエスキモーやイヌイト族の文化が例証になるであろう。日本でもアイヌの人たちが同じ生き方を維持し続けて来ていた。
自然と協調しながらそこに溶け込んで生きるというやり方は、当然、自然の成果をむさぼることなく、恵みとして、自分たちが必要な分だけ頂くということである。従って、土地を私有するという観念などは爪の垢ほどもなく、何でも自分の所有にするという強欲もなかった。そのような生き方を長い長い間基本としてきたオリジナルアメリカンが、ギリシャ・ローマ以来の西洋文明の歴史の中で、その最新版の近代工業化文明を半世紀の間で急速に発展させた文明人である「白人」に出会ったとき、戦いの結末は明らかであった。リトルビッグホーンでは勝ったけれど、これは単に一つの局地戦の勝利に過ぎず、オリジナルアメリカンは東から西へ、後退に注ぐ後退を強いられ、ついには「インディアン・リザベーションIndian Reservation」たる居留地に押し込められる運命にあった。
自然の中でそこに溶け込んで暮らす彼らにとって、土地の一角を我が物とし、そこを木柵や鉄条網で区切る「白人」の仕業は、なぜそううするのか根本の欲求が理解し得ないがために、戦う意味さえも見いだすことができなかったであろう。インカやアステカの人たちが、なぜ白人(スペイン人)がそれほどまでに金銀を欲しがるのか理解できなかったように、北米のオリジナルアメリカンにとって、白人の土地所有欲は、理解を遥かに超えたところにあったろう。
広大な土地を柵で囲って牧場や農園にし、山を崩して石炭を掘り出し、テキサスの原野のいたるところで井戸を掘ってポンプで石油を汲み出し、地平線のかなたまで真っ直ぐ続くハイウエイを縦横にめぐらし、雨の降らない土地に遠くのシエラネバダから延々とパイプで水を運んで人口の街LAやラスベガスを、工業化文明の一派であるアメリカ文明が打ち立ててきた。オリジナルアメリカンから見れば、”何たるあほらしさ、何たる欲望”とただただあきれて見守るしかなかったであろう。
そのアメリカ文明が、社会的にも経済的にも崩れ、石油は汲み上げすぎて国内需要の3分の1もまかなえなくなり、水も地下から汲み上げすぎて地中のアキファーの水位は下がる一方であり、さらにはシエラネバダ(雪の連峰という意味)に降る雪がどんどん減るという、地球自然の報復までくらう有様となっている。何年も続く干ばつに襲われていても、オリジナルアメリカン(インディアン)の雨乞いの踊りを馬鹿にしてきたがために、あるいは殺しすぎたために、天にお願いする踊りひとつ踊れない。
自然物を徹底的に自分たちのために利用するという現在の文明方式が、自然と共に穏やかに生きる文化に勝利したかに見えたが、この文明と文化の衝突のステージはまだ終ったわけではないようである。現文明のやり方の中からはもう答えが見つけられなくなった今、必要なのは、かつてあれほどその存在と生き方を馬鹿にしてきたオリジナルアメリカンに生き方を教わることではなかろうか。その謙虚さがなければ、第二のリトル・ビッグホーンがなくとも、自ら作り上げた人工の物とシステムの重みのために、自分でコケてしまうことになりかねない。
言うまでもなく、これは日本のことを念頭に置きながら書いている。
(09.06.13.篠原泰正)