利益を上げるネタはないかと毎日血眼で活動している人々は、当然の如く何でも商品に仕立てる活動(事業)に結びついていく。この活動が、現文明の特徴の一つでもある「商品経済」の原動力であり、農産品もこの対象から逃れることはできない。もちろん、日本においては、既に、現在の近代文明社会以前の江戸期において、既に農産品のいくつもが「商品化」の対象となっていた。例えば、衣料用の綿がそうであり、菜種油もそうである。それだけでなく、大坂の堂島の米相場に見られるように、大事な大事な「お米」さえも投機のネタになっていたことを振り返れば、何でも商品にする動きは何も現文明に限られた事ではないということもできるが、ここでは、その規模、その徹底の度合に注目したい。
農産品を大きな利益を上げられる「商品」とするためには、買い手がたくさんいて(需要が大きく)、大量に同一品を生産できることが条件となる。産業革命で始まる現文明以前のステージで生まれた植民地での大規模農園(プランテーション plantation)がそのはしりであり、典型でもある。このスタイルが現文明の下でも受け継がれているのが、たとえば、アメリカの中西部に見られる小麦とかとうもろこし生産の大規模農家、あるいは農企業である。
農産品を儲かる商品に仕立てるには、この大規模化しかないとも言える。それは同時に、投資の対象となりうるのは大規模農家、あるいは農業をビジネスとする企業しかないということでもある。毎年毎年、家族全員がそこそこ何とか食べていけるだけの収穫を得ているレベルの、つまりごく普通の農家は、「ROI」から見て投資の対象とはなりえない。少なくとも鵜の目鷹の目で、でかいリターンをねらっている投資家の視野にはまったく映らない存在である。
私が子供の頃、日本の世帯の半分は農業に従事、であったと記憶するが、その数の減少は高度成長の速度に比例し、いまや自営の農家の数は見る影もなくなってしまった。投資の見返りが期待できないビジネスとされてきたからである。農家の貯金を預かり、貸付でもって「農業」の活発化を担う役目を持っているはずの機関(農協とその元締めの農林中央金庫)も、お金を農業に投資するのではなく、金融工学商品(つまり博打)に投資(投機)して大きなリターンを図るまでになっている。(今回の金融危機で大損こいたが)。
さらに、農業人口がそれでもまだ構成比として大きかった時は、国や地方の選挙においては大きなファクターであったから、政治面からもそれなりの手当てがなされていたが、農家の数が見る影もない少数派となってしまっては「票田」にもならないので見捨てられてしまった。つまり、ほとんど絶滅が危惧されている伝統的小規模農家は、お金からも政治からも見放された存在となってしまっていることになる。
しかも、何でも商品に仕立てる動きは、農産品の加工(料理の大半の課程)にもおよび、家庭で調理もできない人類が増えたこともあって、いまやわれわれが毎日口にする食品は、どこで誰が作った・加工したかまるでわからない(時には危険な)商品となってしまっている。
現文明がハッピーに滑らかに、ますます広く展開され、地球環境も昔のままであるならば、国内で農家が「絶滅」しても毎日の生活に影響はないのだろうけれど、残念ながら、この文明の有り様と、それがもたらしてきた地球自然への影響のために、ディザスター寸前まで来ている。自分の国で食糧がまかなえなければ、生きるに難しい局面に日々近づいている。儲からない農業に投資することを控えてきた経済と政治の動きのツケガ今目の前に廻されて来ている。
”お金さえあれば、必要な食糧ぐらい、世界のどこからでも買えるから騒ぐことはない”、と思いますか?前の戦争に負けて日本の都市の多くが焼け野原になった時、幸い焼け残った土蔵の中から持ち出した豪華西陣の帯1本では、お米の一升も買えなかったですよ。拡大成長が見込めない分野は見捨てるという現文明の経済の法則の下に、その教科書通りに日本は農業を絶滅寸前まで追い込んでしまった。同じ文明社会の下とはいえ、本家の欧州では(英国を除いて)さすがに日本ほど馬鹿ではないので、国の食糧自給率は常に管理下に置かれている。
「ROI」の観念を捨てて、生存のための根本要素である農業を、拡大成長を望まない農業を回復しないと本当にエライことになってしまうだろう。
(09.05.26.篠原泰正)