現文明を支えている経済システムは、止むことなく大きくなり続けていなければならない宿命を、生まれたときから背負っている。その経済システムの一分子である企業においてもこの宿命から逃れることはできない。もし、メーカー直轄の販売会社の売上が毎年水平飛行であれば、たとえ毎年いくばくかの純利益を計上していても、その会社の社長は本社の営業会議で吊るし上げを食らうであろう。私自身、現役の時にそのようなアブナイポジションを経験してきたので、「常に成長」の恐ろしさはよくわかる。四半期ごとのカリフォルニア本社での経営会議を乗り切るには、売上を伸ばさざるを得ないわけだ。それができなければ、「無能」の烙印の下に会社を去らなければならない。
この私のような中級将校から大手企業の社長まで、そして財界のトップまで、誰もがこの「成長の呪縛」の下に生きており、しかもこの呪縛は経済界だけでなく、政治をも巻き込み、社会全体の強迫観念としてあり続けて来ている。
この「成長」の教義の一つの現れに「ROI」がある。「Return on Investment」、投資の見返りがどれだけあるか、それが高ければ高いほどもてはやされ、「善」であるとされる指標である。そして、この「ROI」の下に、われわれの心は荒み、社会の風景を荒野に変え、地球全体を壊してきた。
CO2の排出を劇的に抑えなければ、地球が危ないという行く末が明らかに見えているのに、CO2排出を抑制しようとする動きに根強い抵抗があるのも、この「ROI」に染まっているからである。CO2排出抑制に投資しても「良き」見返りが得られる見通しはない。従って、このような投資は可能な限り避けたいということになる。
アメリカを先頭にして、先進諸国では、政官財は人馬一体であるから、投資への見返りが得られない(と思われている)CO2排出抑制への抵抗は消えない。CO2を減らせば儲かる、という計算式が出てこない限り、地球温暖化への取り組みは限りなく減速され続ける。
有害物質を垂れ流す企業による公害をなくす動きに対しても、多くの抵抗があったのは、垂れ流している方がROIが良いからであった。垂れ流しても、「オムツ」の手当てはパブリックな経費でなされるのだから、ROIもいい数字が出るわけだ。日本では、さすがに昔のように堂々と垂れ流すことはできなくなったが、かつての日本と同じことが中国では今起きている。公害防止の設備投資は会社のROIに利さないがために無視されている。
CO2の排出に手当てをしないことは、有害物質の垂れ流しの一種であり、本質的に変るものではない。ここでは、しかし、近辺の人間と生物が直接的に毒されるのではなく、地球環境そのものが壊されていく。その影響はあらゆる生物におよび、白熊の絶滅を危惧することは同時に人類の絶滅を危惧することでもある。”白熊は死んでも俺達人間様は大丈夫”、と都合よくは行かないのだ。
欧米でも日本でも中国でも、政官財は、地球がどうなるということは考えないようにして、目の前の経済(GDP)成長、売上回復、ROIによる事業決定の呪縛のままに生き続けようとしている。文明の仕組みをその内部から改善することは、至難のことのようで、歴史上その「改善」に成功した文明の例を私は知らない。
(09.05.25.篠原泰正)