連休前に千葉県松戸市にある、「松戸森のホール」ヘ行った。出かけた目的は「舟木一夫」のコンサートである。彼の大フアンであった「カミさん」に連れられて行ったわけではない。同世代の歌手として、私もフアンの一人である。彼が歌手としてデビューしたのが確か?昭和38年だと、記憶してる。私が高校三年生の時に、舟木一夫の「高校三年生」が大ヒットした。私は翌年に上京したが、明るい未来に向かって仲間と共に頑張る、そんな「青春歌」に勇気をもらった気がする。
ステージでは懐かしい歌が次から次へと披露され、観客も盛り上がり、楽しい時間を過ごした。特に同世代の「オバサンパワー」に圧倒された。ペンライトを振りかざし熱狂だ!。歌だけではなくトークショーもある。人気絶頂からどん底へ。時代から「取り残される焦り、忘れ去れる寂しさ」、我々とは違う苦労をしてきたのであろう、彼の含蓄のある言葉に共鳴できた。彼が言うには、「自分と同じ世代の方と、こうして青春時代を共有できる場を与えられている、この喜びを素直に感謝している」、という下りが特に良い。この世から自分のフアンが消えるまで自分は必要とされている、ということであろう。日本アイアールが置かれている立場と同じか?
日本アイアールが「特許村」へ鳴らす警鐘(能書き)は「わかる人にはわかるが、わからん人にはわからん」ということである。
例えば、自分の歌が今の時代に受け入れられないの」はなぜか(?)。今の人は、我々世代の古い「詩」を読めたとしても、その時の「風景」が思い浮かばないから彼らと感動を共有することは難しい。これが世の流れで世代の違いである。この現実には逆らえない、素直に受け入れていくしかない。幸いなことに自分は、同じ「風景」持った皆様と共に、これからも歩んでいける、と彼は結んだ。私は、この「風景」というキーワードが大変気に入った。
そのとおり、「風景」が見えない連中に、あれこれと能書きを垂れたところで仕方がないのだ。「モノつくり」の世界でも同じことが言える。例えばソニーやホンダの現社員が町工場であった時の「風景」を知るわけが無い。過去の「風景」が見えないまま、あるポジションからの、いきなりのスタートである。本邦初商品を目指して、外国製の商品を手に入れて、皆で分解して、ワイワイと議論をして、手作り模倣品からスタートしたこと何ぞ遥か昔のことで、いまや立場は完全に逆転している。
発明とは、詰まるところ【自然観察を続けての論理的、合理的結果である】。これまでの技術も、世相も、自然も、全てがその時の「風景」である。これからは、どのような発明が生まれてくるのか興味深い。行き着くところは自然の破棄と人間の退廃へ繋がるかも知れない。
技術開発の目的は人にやさしい技術を開発することではなかろうか、便利さを追求するだけでなく「人間がやるべきところ」を残しておく。そのような易しさが有れば、と思う。例え技術化することが可能であっても、人間がやるべき領域まで取上げては多くの人間は考える力が無くなり、やがては退廃する」に決まってる。確かに家電製品、自動車、ゲ-ム、携帯電話などはIT技術の発達で急激に「風景」が変わってきた。勿論、会社経営方式も仕事のやり方も人間も大きく変わった。
経済発展至上主義で自然破壊が進み自然も変わった。楽をして金儲けをする為に「経済工学」とか「金融工学」とか、拝金主義の学問が新しく生まれた。学問までが変わったのか?。経済は工学でなく、「心理学」であるから「金融工学」というのは元々が成り立たない筈である。にもかかわらず金融を「工学化」して素人を騙してきたのである。では知的財産分野はどうか?りっぱに「知財工学」が成り立つのである。ところが、知財分野は不倒の「村社会」を築きあげ、コテコテの「心理学」に浸っている。(続く:矢間伸次)