一つの文明社会が末期を迎えると、さまざまな症状が出るようだが、その根本には、国民、あるいは市民、あるいは民衆、あるいはピープルのアホの度合が進むところにあるようだ。
いわゆる先進諸国において、国民のアホの度合においては、失礼ながら、大英帝国がこの半世紀では一番であり、次いでUSAである、と言うのが私の根拠のない評価であるが、このアングロ・アメリカン社会を追随するのが大好きであるわが日本国民もこの四半世紀、急速にアホ化が進んでいると断定したい。
英国のアホ化は、たとえば学校教育システムにおいての、外国語履修にも見られる。40年前、欧州に留学(実際は遊学)していたとき、英国人の留学生から、かの地では高等学校で外国語履修は必修ではない事を知らされ、本当に驚いた経験がある。しかも、選択科目としてフランス語やドイツ語などの外国語を学習する生徒もほんの少ししかいないということであった。
事実、2-3年前の調査であったと思うが、欧州各国で外国語が操れる人の数は、英国がダントツで少ないという結果が出ていた。もちろん、外国語の習得者の数は、弱小国にいけばいくほど多いのが普通であり、その理由は明らかである。つまり生きていくためには外国語の一つも身につけていないとヤバイというニーズの結果である。また、元植民地であった国では、宗主国の言語を身に付けることは、政府や企業でいい地位につくための必須アイテムであるから、エリート層において、外国語まるで駄目なんて人はいない。
英国は、かつての大英帝国ではなくなってから半世紀以上になるのだから、生きて行くためには、近隣諸国の言語のひとつぐらい身に付けさせようと教育機関が考えるのは当り前だろうと私などは思うけれど、事実は反対の動きとなって現れているようだ。最近何かで読んだ記事では、オックスフォードかケンブリッジのどちらだったか忘れたが、外国語を必須としていた英国最後の大学も落城したそうだ。
世界の中で生きていく上で、母語である英語一つでそりゃなんの不自由もないだろうけれど、外国語教育を無視することは、他の地域の文化や人々の考え方を理解しなくてもよいという考え方に結びついている。UKとUSAの国民が、自分たち以外の民族やその文化の理解度において、多分、世界最低レベルであることは、この外国語教育無視からも出ているのは間違いない。私は現役のころアメリカとのビジネスに関わりが深く、多くのアメリカ人に接してきたが、外国語(例えばフランス語)ができる人にはほとんど出合ったことがない。世界一豊かな国においてこれはまことに驚くべき現象である。
日本においては、戦後の教育改革で、中学から英語は必須科目とされたから、私より10年歳上の人以降の国民は全て英語を学んだ(あるいは学ばされた)経験者であるはずだ。もちろん、必須科目であることとその成果は別問題で、日本の英語教育のヒドサについては以前から罵倒してきたので、今、ここでは繰り返さない。
話がそれそうになったので戻すが、国民のアホ化は文明の末期症状のひとつであり、まずいことに、末期ということは、社会の中にこれまで潜在していたさまざまな矛盾が噴出すときであり、また現在のように、地球環境の異変という大問題までも伴うたいへんな時期でもある。さまざまな大問題に立ち向かわねばならない時にあるのに、国民のアホの度合が進んでいるというのは、文明末期の悲劇である。つまり、それだから、まともな対策が打たれないまま、ズルズルと、そしてアレヨアレヨという間に、事態は悪化していくことになる。私はまったく宿命論者ではないが、文明社会の宿命ということができるのかも知れぬ。
国民のアホ化のもっとも根源的な出所は「教育」政策とその政策を実行するシステムにある。
ということで、これからしばらく、「教育」を話題としていくことにする。教育の基本は、生徒一人一人に「なぜ?」を考えさせることにある、と私はゆるぎなく考えているが、日本における教育はその正反対に位置するやり方で来ている。その理由は簡単にわかる。「なぜ?」を考える国民が増えることで都合の悪い人たちがいるからである。
明日から、まず、この「なぜ?」の重要さから取り組んでいくことにする。
(09.04.10.篠原泰正)