(1008)言語と情報システム
(1007)モノとシステム
(1006)べったんとラムネ:賭け事
(1005)つくし:食べ物そして文化
(1004)ブンカ:あるいは文化住宅
(1003)GI毛布:1946-49(2)
(1002)河内弁:1946-48(1)
情報システムと言語の関係を考える場合、二つの面から確かめる必要がありそうである。
まず情報システムの基本はコミュニケーション(communication)にあることを再確認しておくことが必要であろう。コミュニケーションとは二者間の「お話し」であり、互いに通じ合うことで成り立つ。同じ言語を話す同士であれば何も問題はないが、互いに違う言語を話している場合には、このコミュニケーションをどのようにして成立させるか、頭の痛い課題が出てくる。そして、厄介なことに、ネットワークシステムがグローバルに広がれば広がるほど、この違う言語の種類が増えてくる。従って、情報システムを構築する場合、まず最初に、この多様な言語の間でどのようにコミュニケーションをとるのかを考えなければならない。抽象的に話をしているが、この日本列島に長年住む人々は単一言語になれているため、どうしてもこの異種言語間のコミュニケーションのややこしさを「体感的に」理解できない。これが、日本人が情報システムの構築に弱い1番目の原因となっている。
2番目には、その言語の違いと関係があるところだが、異種混合(ハイブリッド)という課題が出てくる。例えば、(いささか例題が古臭いが)製造部門における在庫管理システムと販売部門における商品在庫システムは、それぞれ達成すべき目的が異なるし、利用するユーザも異なる。それぞれが独自のシステムを構築して運用していた昔(1980年代)ならば、二つのシステムの間で情報が行き来しなくとも誰も文句を言わなかった。互いに異なるホストコンピュータを使い異なるOSの下でデータを処理していても不都合は生じなかった。
ところが、そのような「楽しい(牧歌的な)」情報システム時代はずいぶん前に終わってしまい、今や部門の違いを超えて情報は必要なだけ行き来することが当たり前のこととして要求されている。したがって、情報システムを構築するには、互いに目的も使い方も異なる、言ってみれば「文化」が異なる種族のシステムを統合的に取り扱わねばならないことになる。(日本の企業の場合、部門(村)が異なれば文化も違うというお笑い風の事象もあるけれど、その話に突っ込むことはここでは避ける。)
極めて均一的なひとつの文化の中で生活しているこの列島の住人にとって、この違いを乗り越えて統合するという必要性は、当然のことながら、苦手の課題となる。文化が異なれば考え方が違い、表現の仕方も異なる。これらを統合するには、まず何よりも、コンピュータの世界以前のところで、”なんだか違うやつら”と日々お話しせざるをえない生活(仕事)をしている体験が必要となる。実生活において、コミュニケーションをとることの難しさを体感している環境が必要といえる。その難しさを実感している上で、異種混合のネットワークシステムを設計し、構築し、動かすことになる。
世界の主流となる情報システムの多くが、カリフォルニアのシリコンバレーから生み出されているのは、そこに世界各地から頭脳が集まってきて設計構築しているからである。日本人が単独で(日本人だけの集まりで)このようなハイブリッドネットワークをなかなかうまく構築できないのは当然といえば当然である。
しかもこのITの世界は、1990年代の半ばからネットワーク間をつなぐインターネットの時代となり、外部(普通の市民)からもネットワークの利用者として参加してくるようになった。つまり情報システムの利用者にマニュアルでもってその利用の仕方を規制できる時代ではなくなったわけだ。これらの何をどうするか予測もつかない不特定多数の「ユーザ」を相手にする情報システムの構築が、ほぼ単一民族的単一文化的集団である日本人の手に負えないのは考えなくとも理解できるところだろう。
さらに、蛇足ながら、そうなると、悪いことをたくらむ頭脳は超一流のやからもたくさん出てくるようになり、情報システムはそれら「悪いやつ」対策、すなわちセキュリティに多大の労力を投じなければならなくなっている。これら「悪いやつ」もまた多様な文化的背景を持っているから、一筋縄では対策できない。ネットワークのセキュリティ対策ソフトウエアのほとんどがアメリカ製(USに本拠地を構えている企業)であることは、凄腕の悪いやからの多くもそこに終結しているからに他ならない。平和なこの列島に住していて、これらのすごい悪いやつらの攻撃から身を守れといわれても、何をどうしていいか考つかないのも当然のことである。
結論風にいえば、集団としての日本人に、情報システムの設計においても”世界のトップ集団になれ”と号令をかけることは、「百年河清を待つ」ではないが、逆立ちして、臥薪嘗胆しても無理な注文となる。
従い、カリフォルニア大学の先生の指摘はもっともながら、その課題を克服しようと必死になるよりも、得意の面を伸ばす努力の方が実り豊かであるということになる。どのように、その「えて(得手)に帆を掛ける」かは別のテーマとなる。
言語、コミュニケーションおよび文化面から、「情報システムでナンバーワン」の道筋は無理という話をしてきたが、付加価値をつけるための情報システムという課題に対して、別の面での大きな障害がこの列島の戦後半世紀以上の中で積み上がっている。
その話は次にする。
(12.01.07.篠原泰正)
昨暮れ、12月30日の日経新聞第1面に、カリフォルニア大学バークレーのロバート・コール教授へのインタビュー記事が掲載されていた。題名は「ITこそモノ作りの中核」となっている。この中で教授は、”日本は強みであるモノ作りにこだわるあまり、世界の潮流を見失っていないか”、”ソフトを軽視したモノ作り回帰は、非現実的な選択肢だ”、”日本企業ではソフト開発部門や技術者への評価が相対的に低く、IT企業は下請けのように扱われている”、などなど相当に手厳しい。
IT(Information Technologies 情報技術)という言葉は極めて幅広く技術分野をカバーしており、半導体製造もディスプレイ装置もITであるが、ここで教授が語っているITは記事から察するに、ネットワーク情報システムおよびそれを動かすソフトウエアである。そうみれば、教授の言うところは大方当たっているといわざるを得ない。言われているところは、簡単に言えば、ハードウエアであるモノとそれを動かすソフトウエアとその二つをひっくるめて総合的に顧客に提供するサービスで金を稼ぎなさい、ということになる。
このこと自体は別に目新しいアプローチでもなく、例えばIBMがもう20年ほども昔に(1993年に外部からCEOに就任したLouis Gerstner氏のトップダウン革命による)メインフレームコンピュータというハードウエアの「モノ」から、それを要素のひとつとしてのITシステム「サービス」業に変身したことなどが記憶に新しい。それゆえ、日本のモノ作りの代表格である大手製造業の皆さんも「頭」では重々承知のことであろう。問題は、「頭」では理解していても「身体」がついていかないところにある。
「身体」がついていかないということは、「苦手」であるためである。苦手であるからついついそこに踏み込むことを避ける。あるいは、苦手だけれどそのバリアを踏み越えなければ明日はない、と覚悟を決めても、中核の「モノ」がまた順調に売れたりすると、喜び勇んでその手馴れた戦場に戻ってしまい、苦い薬を飲むのは明日にしようと延ばし延ばしとなる。
ネットワークシステムは、その土台として拠点のモノ、すなわちサーバと端末機とそれらをつなぐ「線」で構成されている。もちろんこれだけでは、鉄骨だけのビルのようなもので、何の役にも立たない。そこに「情報」が流れて初めて意味を成すのであり、その情報を流す(処理することも含めて)ためにはソフトウエアが必要となる。さらには、それらの情報が、何らかの新たな「価値」を生み出すようになっていなければならない。
その価値とは、例えば、業務の効率化やコストダウンだけで得られるものではない。それらは、当然得られる価値を効率化やコストダウンで取り戻しただけの話であり、教授が”ITこそが付加価値向上のために最も必要な技術だ”というとき、その価値とは、上積みされた価値を指している。つまり、モノだけを単独で売った場合に得られる価値を100とすれば、それに40も50も場合によれば倍にして売るようにしなければならないということである。
言い方を変えれば、IT技術を使って、乾いた雑巾を絞るように1銭2銭のコストダウンを生み出す努力をしていても、それだけでは駄目ですよ、ということだ。その努力は否定しないけれど、もっと知恵絞ってがめつくでかく儲けなさい、と言われていることになる。それが、サービスまで含めての提供ということであろう。
例えば、自動車会社の土台が「良いモノ」である車を提供するところにあることは、自動車というモノがなくならない限り不変であるが、デトロイトのビッグスリーはずいぶん昔に、自動車ローンという金貸し業でさらに儲けるやり方を考え出した。金儲けという面では天才的手法である。ただし、デトロイトの場合、この金融業の儲けのほうにだけ目が行って、肝心の「モノ」である自動車にガタがきたので落ち目となってしまった。
その落ち目の話は余談になるが、教授が語っている「ITで付加価値を高める」というものは、例えば自動車産業で言えば、車の販売や金貸しで稼ぐだけでなく、「輸送」というサービスをトータルに提供することによって新たな価値、すなわち儲け口を生み出しなさい、ということではなかろうか。そのサービス提供には、最新のITに基づくネットワークシステムが不可欠の要素であるというわけだ。
ところが、その新しい付加価値を生むシステム(ネットワークを含めて幅広く)が問題なのだ。いや、日本人にとって、そこが最も苦手とするところと言ったほうがより具体的であろう。もちろん、具体的な「乾いた雑巾をさらに絞る」ための情報システムなど、目的と範囲がはっきりしていれば、その構築はできる。しかし、それは、上に述べたように、100円の自動車から限界利益を少しでも多く絞りだすだけであり、その「雑巾システム」でもって1台200円で売れるようにはならない。金貸し業で50円上積みしてもまだ150円である。200円で売れるようにするためには、あと50円。これが新規の付加価値である。
この残り50円を付加するためにITが不可欠といわれても、何をどうすればいいのか答えがなかなか出てこない。苦手な分野だから。
なぜ、苦手なのか。答えのひとつは、日本人という集団は言語に弱いところにある。情報システムの根源には「言語」がある。言語で明晰に表現できなければシステムは描けない。
自分の経験を通して戦後史を語るという、この1002回目からのブログの趣旨を曲げずに、幼少期から突然時代が飛んでしまい恐縮だが、私のITとのかかわりを含めて、次回以降、このコール教授の指摘を受けて問題解決の道を考えたい。(多分いい答えはないだろうけれど)そのためには、次回はまず、上に述べたシステムと言語の関係を考えることにする。
(2012.01.05.篠原泰正)
西宮北口時代の路上での遊びはいろいろあったが、その双璧は「べったん」と「ラムネ」であった。
「べったん」とは、後に東京にきてから「めんこ」という呼び名であることを知るのだが、ぼーる紙でできた札(カード)を地面に叩きつけて、相手の札を仰向けにひっくりかえす遊びである。ひっくりかえせばもちろんその札はこちらのものとなる。何枚も片手に握りしめている札のなかから次はどれを出すかなど、この賭け事は単に振り下ろす腕力だけでなく、なかなかに深遠な作戦も必要とする。
「ラムネ」とは、これまた東京にきて「ビー球」というお上品な名前であることを知るのだが、勝負の仕方には二種ある。ひとつは、地面に描いた円の中に置かれた相手の「ラムネ」(ラムネという清涼飲料のビンに入っている玉から来た名前)めがけて上空からこちらの玉を落とし、相手の玉を円の外にはじき出せれば勝ちであり、その玉を取得できる。もうひとつは、同じく円の中に置かれた玉めがけて遠くから指ではじいてはじき出すやり方である。カーリングに似たルールでもちろん自分の玉は円内に残っていなければならない。
「べったん」の語源は知らないが、多分、”べったん”と叩きつけるところかきたのだろう。「ラムネ」もそうだが、大坂の言葉には、このような即物的な名称が多くあり、なにやら懐かしい気もする。その「べったん」と「ラムネ」において、私はなかなかの腕前であり、普段から札も玉も相当の数を宝物として所有していた。頭と腕力と指先の器用さを掛け合わせた競技であるから、相当の成績であったことは誇りに足るであろう。
この腕前を順調に伸ばしていれば、ひとかどのギャンブラーになれたはずだが、途中でつまずいて、以後賭け事と無縁の生涯を送ることになった。
つまずきの原因はいずれも6歳下の弟にある。
時代は、だいぶあとの話になるが、小学校6年生の時、学校に行く前の弟に将棋で勝てなくなったのが「勝負師」の道を断念した最大要因である。しかも、さらに、トランプの「神経衰弱」という遊びで対弟戦に全敗を繰り返したことが決定的であった。敵はどういう頭の構造なのか、一度めくられたトランプの札のナンバーと場所を全部覚えており、あれよあれよという間に撒かれた札全部が彼の手元に移っていく。これはアカンということで、以来今まで、勝負の世界とはすっぱり切れてしまった。
従って、麻雀もできない。私の通った高等学校は大学の付属ということもあって、級友の多くは雀荘に馴染んでいるという環境であった。親しい友人の一人なんぞは、雀荘のお姉ちゃんにほれられて(3年生の時)半同棲的に雀荘から学校に出て来ていた。このようなつわもの(強者)に取り囲まれている環境で、”点棒の数え方教えて”なんて言い出せるわけがないし、仮に計算の仕方を覚えて仲間に入れてもらったとしても、クリスマスの七面鳥のようにすべての毛をむしられてしまうことは目に見えていたので、一度も雀荘に足を踏み入れることなくこの歳に至っている。
パチンコは左手で玉を穴に入れすかさず右手でレバーをはじくという連携動作が難しく、これも早々にギブアップした。競馬の馬券を買ったこともなく、ましてや競艇やオートレース場に足を踏み入れたこともない。
唯一、ギャンブルに興じたのは、サラリーマンになって10年ぐらいから、カリフォルニアに関係する仕事が増えてからである。場所はもちろんラスベガス(Las Vegas)であり、もうひとつはサンフランシスコから東、シエラネバダ(Sierra Nevada)のてっぺんを越えた向こう側、カリフォルニアとネバダの州境にあるタホ湖(Lake Tahoe)のほとりのレノ(Reno)のカジノ(casinos)である。
その二つの「賭場」に出入りした数は合わせてせいぜい10回ぐらいであるが、瞬間的に最大儲けたのは300ドルという記録しかない。カードを使う名前を忘れたがなんとかという遊びはルールと計算の仕方が理解できないので、遊びはもっぱらルーレット一本やりであった。”商品企画屋として先の読みは当たるのだ”と豪語しながら何度も挑んだけれど、その最高値がたった300ドルというお粗末。しかも、その金額に有頂天になり続けたものだから、あっという間に「元の木阿弥」。どこかの御曹司のように100億円をつぎ込むなんて遊びからみれば、ビンボーな、ど素人きわまれりというところだろう。
さらに言えば、株というのも買った経験が一度もない。せっかく、5歳6歳でひとかどの路地のギャンブラーであったのが、長じるにつれて、こと賭け事となると、清らかな聖者のごとき生涯を送ってきたことになる。人生そのもが「賭け」のようなものだったから、それ以外の「賭け」に手を出すゆとりがなかったのかも知れぬ。
(2011.12.29.篠原泰正)
阪急西宮北口駅から北に伊丹の方向へ支線が1本延びていた。(今でもあるのだろう。)我が家から割合近くを走っていて、多分単線であった。この電車の土手に春になるとつくし(土筆)があちこちに出てくる。なんでこのようなことを覚えているのか。それは、このつくしんぼうが食べ物になるからである。手にもてるだけ摘んで家にもって帰ると、母の手でそれらが夕飯の1品として出てくることになる。たしかおひたしとして出てきたはずである。いささか苦味があって子供むきのものではなかったが、青菜の不足を補うささやかな手配りであったのだろう。
私の(母方の)祖母は私を指して”この子は不憫(ふびん)や”といつも言っていた。何が不憫かというと、まず第一に、(戦争のために)”乳母もつけてやれず”という仰天すべき事実が出る。兄二人にはこの乳母なる存在がついていたそうだから、確かに不憫のひとつなのだろう。この乳母なる存在に後にも先にも実物を見たことが無いので想像もできなかったが、長じて(小学校の高学年になって)講談本を読み散らすようになってから、「乳母」というと「春日の局」が浮かんでくるようになり、あんなきつそうなおばさんなら居なくてよかったと、不憫どころか戦争に感謝したくなったものだ。
第二の不憫は、満1歳の春に「小児麻痺(ポリオPolio)」ウイルスによって脊髄が冒され、首から下全身が麻痺するという、家族にとってはそれこそ驚天動地のやまい(病)にやられたことにある。最終的には右足のひざ下のどこかあたりまでしか運動神経が回復せず、右足首不全という後遺症が残ることになった。もっとも一病息災という言葉もあるように、その人の生涯において生きるか死ぬかの大病を1回済ませておけば、あとは大病しないようで、それ以降今まで入院した経験は、自宅マンション前の坂道で10段ギアつき高速チャリで転倒して大たい骨にひびが入ったときだけである。(この入院騒ぎはあまり名誉な話でもないので詳細は省く。)その意味では、これも大して不憫な話でもない。
第三の不憫は、この子は「おかず」という言葉を知らなかった、というところにある。ものごころついた時から小学校に上がるあたりまで、つまり、この西宮北口時代では、夕飯といえどご飯と味噌汁の組み合わせのみで、そこに焼き魚のひとつ(これがおかずというもの)も付くことは無かったことになる。従い、「おかず」という単語は私の辞書には記録されなかったわけだ。まことに不憫なことではある。
しかし、狭い世界ではあるが周りを見ても豪勢な食事なんぞとっている家族があるわけではなく、それどころかどの家庭でも「おかず」なんて贅沢とは無縁であっただろう。農村はいざ知らず、都会地での戦後は食べ物確保がどの家庭でも第一番目の最大課題であったのだから、この三番目の不憫もまあたいしたことではない。そこに母が居て(父親も居たのだがめったに見かけることが無かった)、兄弟がいて、貧しくともなんとか食べることができたのだから、当時の社会においてはまことに恵まれた境遇にあったということになるだろう。
食べ物というのは、魚とり(漁業)と農耕(牧畜も含めての農業、agriculture)活動に依存しており、まさに「文化」の多様な局面のひとつの典型と言える。ところが、工業とお金を軸にした現文明が伸展するにつれて、「食べ物」も「食糧」となり、工業製品と見分けがつかなくなっていく。スーパーに並ぶ魚の切り身から元の魚の姿を想像することは難しく、「切り身」という工業製品が並んでいるだけである。
「文化」というのは「感じる」ことに土台を置いており、「文明」とは「考える/計算する」に土台を持つ。文明の拡大は同時に文化の縮小をもたらし、食事という文化においても、ごはん(食べ物)をありがたくいただくという感情は薄れていき、計算に基づき食糧を廉く便利に(効率という計算)仕入れて食卓に並べるだけに変っていく。作った人の感情が入っていない工業製品のごとき食糧を食べるしかない現代の子供にこそ、ばあちゃんの”不憫やなあ”という言葉が似合うことになる。
さらに話は飛ぶが、食べ物を食糧としてとらえていれば、誰がどこで作ったかは意識の外であり、金さえ出せばいつでも買える「モノ」に過ぎなくなる。したがって、この列島における「食糧自給率」が40%と聞いても誰も驚かない。自給率40%ということは、”有事の際”つまり戦後すぐのような事態において、輸入食糧が途絶えれば、1億の民のうち6千万人は飢えるということであり、平等ということで見れば、毎日の食事を60%減らすことを意味する。日本国民全員の究極のダイエットとなる。
食べ物のありがたさを忘れてしまうことは、自分たちの文化を捨ててしまうことであり、限りなく感性を劣化させていることになる。そのような民がある日「食糧難」に襲われても、世界から”不憫やなあ”という声は聞こえてこないのではなかろうか。
(11.12.27.篠原泰正)
尼崎の東、大阪市の西はずれに十三(じゅうそう)という名の地域がある。繁華街もあるらしいけれど曽根崎新地や北の新地から見れば、こんなことを言うと地元の人に”どあほ、何ぬかしてケッカンねん、ドついたろか!!”と、それこそ口に手突っ込まれて奥歯ガタガタいわされるかも知れないが、まあ場末である。
このあたりに、ここだけではなかっただろうけれど、戦後早い時期に、多分復興政策の一環であったと思われるが、公営の住宅棟がいくつも立ち並ぶことになった。言うなればプレハブの長屋であったが、この長屋が「文化住宅」と呼ばれることになった。即物的で気早い(イラッチ)大阪人はこの呼び名を縮めて「ブンカ」と呼ぶようになる。
建屋はお手軽のものであったが、電気、上下水道、都市ガス、(多分)電話完備のいわゆる近代的住宅であったから「文化住宅」である。しかし、何か変だ。デンキ・スイドウ・ガス・デンワは近代文明社会を象徴する代表的基盤であり、名前をつけるなら「文明住宅」とすべきだったのではなかろうか。
しかし、「文化」と「文明」はとかく混同される概念であり、またその境界線をはっきり引くことも難しい。戦後日本の当時、新しいもの、進歩的なもの、快適なもの、きらきらするもの、これらすべては「文化的」と呼ばれていたように思える。何しろ、先進の知識人(これもおかしげな名称であるがここでは傍に置いておいて)が「文化人」と呼ばれていた時代であるから、文明的なるもの、すなわち当時ではほとんど同義的にアメリカ的なるものは、「文化的」と呼ばれていたと言える。その「文化」を十三の住宅に代表させて「ブンカ」と呼んできた大阪人の頭の構造もこれまた驚くべきところがある。いかにも大阪風の、風刺をこめてのおふざけであろう。
何度もこの場で書いてきたように、「文化/カルチャー/culture」は農耕に源を置く、ある地域でのある集団が共通して持つ生活とものの見方の総称であり、反対側からみれば、その土地で生まれ育たないとなかなか身につかないなにやら変なものとも言える。これに対して「文明/シビライぜーション/civilization/civilisation)は、その人が身に付けたカルチャーの種類に関係なく、頭さえ働けば習得できる様々なやり方とその産物といえる。結果としての産物の典型としては、文明の中興の祖、あるいは現在の近代文明の祖であるローマ文明が誇った道路と上水道が今に残る。つまり、文明とはまず何よりも社会基盤の整備があって成り立つものであり、それらをどうやって造るのかを習得できる頭さえあれば誰でも真似できるものである。
したがって、十三の住宅を「ブンカ」と呼ぶのは定義から言えば明らかに間違いであり、明治維新の時に、”ざんぎり頭を叩いてみれば、「文明開化」の音がする”と半分やけくそ気味にうたった人の方が言葉の使い方において正しかったことになる。
前回までに書いてきた西宮北口の家では、上水道と電気はかろうじてきていたが、電気はしょっちゅう停電するので、予備に「石油ランプ」が備えられていた。下水は通っていなかったので便所は「ぽったん式」であり、電話という「文明の利器」も通じていなかった。その意味ではブンカいやブンメイ化も半分ほどであり、十三の「ブンカ」的生活よりも遅れていたことになる。
農村において、この「文化住宅」化が遅れたことが、日本の農村の疲弊を招くひとつの大きな原因であったろうと思われるが、その話はまた後にする。
(2011.12.23.篠原泰正)
叔父(母の兄)が闇市でアメリカ軍の毛布を2枚買ってきてくれた。われわれ兄弟3人が夜暖かく寝られるようにとのやさしくありがたい配慮であった。
実際、このアメリカの国防色である濃いオリーブ色の毛布は、信じられないほど暖かく、子供二人が包まって寝るに十分の幅と奥行きがあった。しかし、この毛布には大きな文字でUSAと刻印されているところが、小心者の私を怯えさすに十分であった。誰かは覚えていないが、多分6歳年上の長兄が、この毛布が見つかるとMPに連れて行かれる、と冗談混じりに話したことが頭から抜けなかったためである。
MPとは、後に少し大きくなってから知ったのだが、アメリカ陸軍のMIlitary Policeの略であり、日本の陸軍では憲兵と称された軍隊の中の警察である。その姿は、当時駅前などではごく当たり前に見られたように、鉄兜(ヘルメットなどというかっこいい言い方は当時は無かった)に大きく白地でMPと記し、カーキ色の制服に白いバンド(ベルト)を締め、ズボンのすそは軍靴も覆う白い脛当て(すねあて)で決めていた。すねあてをなんというのか、日本陸軍の兵士のゲートルとは異なり、後にプロ野球のキャッチャーがするようになるレガーズに似ていた。
MPが調べに来たらどうしようという不安は、あながち根拠のないものでもない。当時、西宮北口にも大きなそれがあったようだが、闇市には米軍のPXから闇で流れ出した物資が豊富にあり、お金さえあれば何でも手に入る、というような大人の話を傍で聞きかじって知っていた。PXとは、これも後になって知るところだが、Post Exchangeの略であり、アメリカ軍の駐屯地の中にある今で言うスーパーマーケットのようなものだったらしい。兵士およびその家族が必要とするどんなものでもここで格安で買えたらしい。その物資が、どのようなルートで外に流れ出すのか、当時も今も私の知るところではないが、生活用品や食糧などは何でもかんでも流出していたようだ。
叔父が買ってきた毛布はしかしUSAの刻印が打たれているところから見ても、これはPXの市販品ではなく、兵士に無料で配布される支給品であった。日本の軍隊もそうであったが、アメリカ軍も将校ではない下士官(軍曹など)兵士(一等兵など)の用具(下着から鉄砲まで)すべては官給品であり、食事も軍隊経費であった。これらの支給品はG.I.すなわちGovernment Issues(政府発行)と称され、それが兵士そのものを指すようになった。私がこのGIの意味を知るようになったのは、多分、高校生のころの、エルビス・プレスリー(Elvis Presley)の歌「GIブルース(G.I. Blues)」による。
このようなGI品、すなわちアメリカ政府の官給品まで闇市にあったということは、それが米軍のでたらめさの結果なのか、それとも日本の闇市の元締めの凄腕によるのか不明であるが、叔父はどれほどのお金で購入できたのだろうか。母の実家が灘の造り酒屋(大手ではない)であることは前回触れたが、終戦の直前、20年春の数回の神戸空襲によって、すっかり焼き払われてしまっていたから、お金が潤沢にあったはずがない。考えられるのは、酒屋の武器であるお酒である。1升瓶をぶら下げていけば、鯛でもかつおでも丸ごと一匹喜んで売ってもらえた、という話を母から聞いた覚えがあるので、もしかしたら、何本かの一升瓶がこの米軍毛布に化けたのかも知れぬ。蔵は焼けてしまったけれど、同業のどこかで細々と酒造りを叔父は再建していたのかも知れぬ。そのおかげで、われわれは、米軍兵士のようにぬくぬくと夜を過ごすことができたわけだ。
怖れていたMPの家宅捜査は無かったけれど、多分、このような毛布を私有していることは世間様には内緒であったはずだ。そして、この毛布は質が良かったので、その後もずいぶん長い間お世話になることになった。
もの心ついて初めて実際に触れたアメリカ文明がこのGI毛布であった。綿の薄いせんべい布団と比べて、その手触りや暖かさは圧倒的な力でもって、”アメリカはすごい”と思わせるに十分であった。私にとって、めくるめくアメリカ文明はまず毛布という姿でやってきた来たことになる。貧しい食事、つぎはぎだらけの着物、下駄しかない履物、決まった時間に停電する電気、身の回りのそれらの貧しさの中でこの2枚の毛布はあまりにも異質であった。
私の前に現れたアメリカ文明はまずその工業力で代表されていたことになる。子供心にも驚嘆したこの工業力を目の前にして、当時の大人が、なんとしても日本をアメリカのように、と必死の決意を固めたのは、当然と言えば当然である。敗戦という焼け野が原に呆然とするまもなく、多くの日本人の目の前に、目標とすべきものが具体的な形で示されたことになる。幕末の黒船に驚嘆したあくる日から、西洋列強に負けるな、としゃかりきになった二、三代前の日本人と同じように二度目のがんばりが始まる。それが、この昭和21年から始まる復興期であった。私はもちろんそのようなことを知るわけも無く、MPの悪夢にうなされながらも暖かい毛布に包まって快適な夜を過ごし、夜が明ければ、ひがな一日路地での遊びに夢中になってこの時代をすごしていたことになる。
(11.10.01.篠原泰正)
父親がインドネシアから復員してきて幸いなことに一家全員がそろい、淡路島の疎開先から、阪急電車の西宮北口駅近くの社宅に引っ越してきたのは昭和21年(1946年)の何月かであったと思う。時期があいまいなのは母の生前に確かめておかなかったためであり、当時4歳の私にとっては年号など覚えているわけがない。私の記憶がはっきりしてくるのはこの西宮時代からであり、その意味で懐かしい土地である。この土地には小学校に上がる直前の昭和24年(1949)の初めまで足掛け4年いたことになる。
家はごみごみした町やの中にあり、それでも小さいながら門があった。場所はよく覚えていないが、東西に走る阪急の線路の南側にあったはずである。すぐ近く、確か家から西の方向に阪急ブレーブスの本拠地である西宮球場があった。兄二人は線路の北側にあった高木小学校に通っていたが、学校に上がる前の私にとってはそれこそ毎日が休日であり、この時代は、路上で遊んでいた記憶がほとんどである。
遊び仲間は兄たち年長組が指導するグループであり、私のように4-5歳の幼年から小学校6年から中学1年ぐらい(12、3歳)までの男の子10人内外で形成されていた。グループそれぞれには遊ぶ区域(縄張り、シマ)があったようで、グループの間では喧嘩騒ぎもあったようだが、一番の若輩である私の出番は無かったから出入りに関して覚えているところはない。近所には”どーたん”というあだ名の中学生がおり、ちびから見れば近寄るのも恐ろしげな、白い鼻緒の高下駄を履いた豪傑に見えた。後から考えれば、学制改革前の時期であるから、彼は当時、中学4、5年生ぐらいだったのかも知れない。いずれにせよ、彼はすでにがきの集まりからは卒業した隠然たる勢力を持つ存在であった。
日がな一日路地で遊び暮らし、家に戻ると早速覚えたての言葉を披露する。”あほんだら”、”どあほ”、”どついたろか”、などなど。今はもう表現を忘れたが、お前の口に手を突っ込んで”奥歯ガタガタいわしたろか”というすごい言葉もあった。これらの言葉は母の眉をひそめさせるに十分であったが、毎日を生き延びるに精一杯の母親にとっては注意をしている余裕さえも無かったはずだ。
この西宮北口という土地は、後で知ったのだが、少し東に行けば尼崎であり、そこは阪神間随一の工業地帯であったために、母の嫌う”がら(柄)の悪い”土地であった。したがって、この北口の悪がき連の言葉も尼崎風であったことになる。
神戸の東隣(今は神戸市に編入されている)の東灘郡御影(ひがしなだぐんみかげ)という上品な土地でお嬢様として育った母にとっては、大変な土地に来たものだという思いがあったことだろう。そして、これも後になって気がつくのだが、この西宮北口で覚えた数々のどぎつい言葉のオリジナルはどうやら「河内弁」にあるらしい。母の実家は河内屋という屋号の造り酒屋でその代々の襲名を「与三郎」という。河内屋というからには先祖は河内から出てきたのに違いないが(酒屋の前は材木問屋をやっていたと伝承されている)、何代も神戸近隣で商売をすることで、土臭い河内の言葉を異質のもの、がらの悪い言葉と受けとめるように変化したのであろう。
実際の体験は無いが、大阪の上流の商家の言葉は「船場ことば」であり、庶民の大阪弁の主流はこの河内弁と言われる。特に、喧嘩騒ぎの時などにはこの河内弁が圧倒的な迫力で使われる。言い方を変えれば、河内弁ですごまなければ、まったく様にならないことになる。
この20年ほど、テレビでは、吉本興業の隆盛もあり、上方芸人がどのチャネルを回しても現れて大阪弁をしゃべり散らしているが、彼らの言葉が河内風大阪弁、すなわち大阪庶民の言葉である。その一方で、優雅な船場言葉は多分もう市中から消えてしまっているのだろう。
私がこれまでに見聞きした狭い範囲で言えば、関西弁の中心域では京都弁と大阪弁と神戸弁の三域に分かれる。その大阪弁と神戸弁の境が、阪神間で見れば、大体この西宮市となる。東隣の尼崎は完全に大阪圏内であり、西隣の芦屋になると神戸陣営に近い。ただ芦屋は大坂の金持ち(船場の大商人)の別荘地帯であったためかいささか特殊であり、全面的に神戸圏内に入れてしまうとお叱りを受けるかも知れない。多分、船場言葉掛ける東京標準語掛ける神戸の言葉という混血語と分類すべきかも知れぬ。
ともあれ、もっとも急速に言葉を吸収する年齢の時に、”どたま、かち割ったろか”という河内弁すなわち大阪土語の洗礼を受けてきたので、関西芸人に席巻されたかに見える、限りなく知性がゼロに近い今のテレビ番組を見ていても、私には違和感はほとんどない。
土着の文化と言葉の密接な関係が戦後すぐの時代にはまだ色濃く残っていたひとつの証となることを願ってこの文を終わる。
(11.09.28.篠原泰正)
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