私が日本のメーカーに勤めていた時、いつだったかもう忘れてしまったが、生産本部が部品の共通化を徹底し、大幅なコストダウンに成功したことがあった。その成果の報告会の後、ある重役さんがつぶやいた:トヨタのコストダウンは乾いた雑巾を絞るようなものだが、うち(わが社)は濡れ雑巾を絞るようなものだから、そりゃ少し絞ればあれぐらいのコストダウンはできて当然だろう。
この乾いた雑巾を絞るトヨタはその「カイゼン」で有名で、この単語は世界共通語ともなっている。カイゼンはトヨタのお家芸だけでなく、世界からみればその他のメーカーも多かれ少なかれみなやっているとみなされている。事実どうだろう。
しかし、カイゼンとはなんだろうか。既存のものの「手直し」、つまり一部分の「改良」を指すだけなのではないかと、最近、頭の中に疑問が浮んでいる。根本的な修正、つまり今まで続けてきたやり方を全部ひっくり返しての「カイゼン」はほとんどなされていないのではないかという疑問である。たとえ「論理的に」全部やり直した方が良いと頭では考えても、何度も述べてきているように、日本文化の基底にある「村社会のしきたりに従って生きる」という身についた原理からは、ちゃぶ台全部ひっくり返しての提案はなし難いことになるだろう。「関八州所払い」を覚悟しなければ、とてもなせる業ではない。
なぜならば、やり方を根本から見直し変えようと提案することは、それまでやってきた先輩の業績を否定することにつながるからである。そのような「無作法」は日本の社会では認められない。また、そのような根本的なカイゼンを提案することは、仮にそれが採用されてうまくいかなかった場合は発案者が責任をかぶらなければならない破目になる。よほどのおっちょこちょいでなければ、このような冒険には手を出さないだろう。
それならば、根本的なカイゼンは日本ではなしえないのだろうか。一つ、やり方がある。国のレベルでいえば、「外圧」を利用する手がある。旧来の方法にこだわる抵抗勢力を崩すには、「海の向こうではこのようにやっている」とカイゼンを輸入する手がある。これは戦後60年の日本の姿を振り返れば、いくらでも実例がある。企業のレベルでは、競争相手の会社ではこうやっている、と実例を示すことが有効である。そう、先例があれば、どのようなカイゼンであれ、導入することは可能なわけだ。よそでもこうやっている、と示せば、それは先輩を傷つけることにはならない。また提案者の命が危なくなることもない。
このような「外圧」によるカイゼンは、ここまでの話でも明らかなように、自分で論理的に考えて生み出されるものではない。したがって、その導入も「論理的に」その長所欠点を分析した結果でおこなわれるものではない。よそでもやっている、大変、負けるな、という類の「情緒」に基づく決済に過ぎない。たとえば、よそが中国で生産を始めたとなれば、「考える」ことなく即日「うちも行こう」と決済になる。あんなところに出て行ってほんまにだいじょうぶかいな、というチェックはそこには入らない。
このような社会において、「今のやり方は論理的に考えておかしい、会社に大きな損害を与えている、カイゼンしなければ」、と提案することは、幕末の勤皇の志士ぐらいの勇気がいることになろう。それでも、85年ぐらいまでの、わっせわっせと上り調子でやってきた時代は、このような「勤皇の志士」も会社の中に何人もいたのだが、その後の成熟社会、成熟会社の中で、これらの人は煙ったがれ、一人また一人と姿を消していった。したがって、それらの勇気あるおっちょこちょいは、今や、会社の中でまったくの「絶滅危惧種」、あるいは完全に絶滅した種族となっているのではないか。まだ生き延びているにしても、地下にもぐってひっそりと生存しているだけの、「人畜無害」の存在になっているのではなかろうか。
やり方の根本的なカイゼンが至難の業、あるいはほとんど99%実行不可能な業である以外に、新規の分野での新規の製品開発提案も、同じ運命にある。
ビジネス展開は論理的に考えることが基盤になっているはずなのに、昨日も今日も明日も同じの「business- as- usual」でやっていると、あるいは隣の村の動きだけを見ているようでは、外からの乱入者、例えば金銭遊戯者などに土足で上がりこまれると、論理的に抵抗できなくて、押し出されることにもなりかねない。何しろ、外から持ち込まれた菌に対して、論理的という抵抗力がまるでないのだから。
(07.05.25.篠原泰正)